野田屋 天ぷら講習会
「天ぷら」の歴史
 「天ぷら」の語源は、スペイン語或いはポルトガル語が訛ったのではないかとも云われており、漢字の「天麩羅」は以下の三つの類義語を充てたと云われております。
  • 「天」は上に揚げる
  • 「麩」はグルテンを含有する生麩
  • 「羅」は織物の薄絹
「天ぷら」の原形が日本に伝播したのは、16-17世紀頃に長崎に来訪した西洋人や中国人により伝えられたのが最初であり、その後、江戸時代中期の安永年間には魚介類に衣を付けて揚げる、現在の「天ぷら」に近い手法が広まりました。
 この頃には、人通りの多い市中には常設の天ぷら屋台が増え始めて、食欲を誘う香ばしい香りと立ち食いの安易さが江戸の気風に受けて、「天ぷら」は盛況を極めます。

 そして、江戸末期になると、当時では贅沢品の卵や油を潤沢に使用した「高級天ぷら」が上流階級に愛好され始めて、「天ぷら」が高級料理としての地位を確立するようになり、現在の「天ぷら」の原形となりました。

「天ぷら」が、庶民や上流階級を問わず愛好されるのは江戸から明治に変わっても衰える事はありませんでしたが、大正12年の関東大震災により一大転機を迎える事となります。
関東大震災により閉店を余儀なくされた、東京の「天ぷら屋台」の職人達が各地に移住する事により、江戸前の天ぷらが関西や他の地域に広まってゆく事になり、更に東京の復興につれて関西の料理店が東京に進出する事に因って、多彩な「天ぷら」が供給され始めるようになりました。

関西では「ごま油」を使う店が登場して、その影響を受けて東京に措いても、あっさりと揚げる天ぷらを塩で食させる店も登場したり、魚介類だけでなく野菜の天ぷらも波及するようになり「天ぷら」の全盛期を迎える事になります。

第二次大戦後の復興時に措いても、焼け野原の東京で占領軍に喜ばれたのが「天ぷら」であり、当時の外相・吉田茂の要請でGHQ高官用の接待に供された程で、結果、欧米人の間では日本を代表する料理として広まってゆく事になりました。
そして、健康志向が高まる現代人にとっては、栄養配分の良い「天ぷら」は今後も益々食され且つ愛好されてゆく事と思われます。